2010年7月13日火曜日

欧州統合、ecomony(-ies)、culture(s)

 近々、欧州における文化政策の歴史を概観するつもりです。今読んでいるのは福田耕治編『EU・欧州統合研究』です。文化政策への言及はほとんどありませんが、EU関連の予備知識をおさえるつもりで手を出しました。

 欧州統合の議論というと、経済統合の側面からの議論が主です。EUの第一の前身といわれる「欧州石炭・鉄鋼共同体」(European Coal and Steel Community)にしても、地下資源の国際共同管理(=独仏による独占の阻止)という関心からスタートしています。とはいえ、独仏国境アルザス・ロレーヌ地域の地下資源争奪がヨーロッパにおける戦争要因のひとつであったことを考えると、ECSCは「不戦共同体」であったとも言えます(P26)。ただし、現在EU内における戦争の危険はほぼ皆無なので、「不戦共同体」という役割規定はもはや過去のものです。
 ECSCは、その後発足した「欧州経済共同体」(European Economic Community)および「欧州原子力共同体」(European Atomic Energy Community)とともに、ヨーロッパにとっての重要な統治機能を担っていきます。それらは、「超国家的な政策決定機能と、加盟国統治機構の混成組織として制度設計されたユニークな融合形態の政体」(P27)として、政策履行の実効性を担保できないという国連の弱点を克服したモデルとなります。

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 福田耕治さんはSimon Bromleyの「地域統合の歴史的発展段階」を引用していて(P29)、これが面白いのでここに載せておきます。

①自由貿易領域:加盟国家間に通商上の制限がない領域
②関税同盟:①+共通対外関税
③単一市場:②+モノの自由移動
④共同市場:③+資本・労働・サービスの自由移動
⑤通貨同盟:④+共通通貨
⑥経済同盟:⑤+共通経済政策

Bromleyがこのモデルを提示したのは2001年ですが、現在EUは⑤と⑥の間を進行中のように思われます。また、昨今の経済危機が⑥への移行をより強力に推し進めているように感じます。

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 もちろん欧州統合のプロセスは順調ではありません。フランス・オランダの欧州憲法条約国民投票否決、アイルランドのリスボン条約国民投票否決という危機がありました。どうにか端緒についたリスボン条約体制ですが、これは国旗・国歌を規定して連邦的色彩を強調した欧州憲法条約の批准失敗の上に成立してものであります。文化を経済の下部構造だと言うつもりはありませんが、ここにおいて、ヨーロッパの文化的アイデンティティをどのように捉え、打ち出していくかという戦略的課題について考えることには大きな意味があります。
 欧州デジタル図書館Europeanaが文化政策の枠に収まるものではないということに注意すべきであると思います。Europeanaは現在著作権問題に注力していますが、これは文化の問題であると同時に、高度に経済的な問題でもあります(たとえばgoogleとの闘いです)。私がEuropeanaに関心を持つのは、まさにこの理由によります。先日スペイン政府がEuropeanaに対し、2010年分として10万ユーロの支援を決定しました。各国の関心はますます増大しているものと考えていますが、そのことはEU新体制のあり方と大きく関係しているでしょう。

2010年7月8日木曜日

文化情報のコントロール

「グローバリゼーションと文化政策」というタイトルの対談をネット上で発見。政策研究大学院大学助教授の岡本真佐子さんの言葉の中から、いくつか気になった箇所をピックアップしておきます。


「情報化が進むに従って、情報というものが持つ意味と重要性が大きくなりますから、それに国がより積極的にかかわろうとしていることは確かだと思います。しかし、文化政策という観点からすれば、関与を強めることと「コントロール」とは一応切り離して考えたほうがよいと思います。というのも、今日の世界において情報そのものの置かれている状況が、大きく変わってきているからです。つまり、ある情報を、ある主体が占有できるのかというとそうではないですし、一方的に情報を流すことによって、相手がそれを説得力があると受け止めて動いてくれるのかというと、そのような状況はまったく期待できません。なぜなら、情報の発信源を、いままでは国家が占有してコントロールできましたし、受け手の側はそのチャネルしかないので、それを信じざるを得ない、動かざるを得なかった。しかし、現在は、ある情報が本当に信憑性があり、説得力があるかどうかを判断するための情報を、受け手がすでに豊富に持っているわけです。情報をコントロールするというよりは、いかに情報を相手に伝え切るか、あるいは何らかの発信内容が説得力を持って受け止められるような環境をどうつくるのかということのほうに、ウエイトが移ってきていると思います。

「イギリスの例ですが、BSEが問題になったとき、イギリスでの狂牛病対策は非常に混乱しました。そのとき、いかに過程を明らかにしてはっきりと情報を流しても、イギリスの科学に対する信頼性が低かったために、他のヨーロッパ諸国に信頼してもらえなかった。また、イギリス国民も安全であると思ってくれなかったという強い反省があります。そのため、ブリティッシュ・カウンシルの科学担当セクションは、今後は情報開示をもっと徹底的にやって、日ごろ馴染みのない専門的な病気の問題であっても、いかに広くそれを理解してもらうかということと同時に、イギリスの科学のレベルの高さを、どうやって他国にアピールできるかが勝負だと言っています。これは、狂牛病に限らず、何か次に問題が起きたときに非常にポジティブに働きます。イギリスは、これだけのレベルの科学を持ち、これだけの対応能力を持っているから安心だという理解が浸透していれば、それが次に何かが起こったときにポジティブな説得力を持つだろう、と考え、そういう取り組みをいま始めています。その点、日本政府の今回の対応は不可思議というか、問題がありそうです。」

「ドイツはナチス政権時代の失敗がありますから、情報に対しては慎重を期しています。いまの文化活動において発信に努めているというのは、「ドイツの文化」ではなくて「ドイツのさまざまな文化」、"not German culture but cultures in Germany" という言い方をしていますね。」

ゲーテ・インスティテュートの場合、情報の説得力という点で私が非常に面白かったのは、ポジティブな情報だけを流すということは、結果的には信憑性を損なうと考えていることです。ドイツは、民族間の問題など、国内に非常に難しい問題をたくさん抱えていて、解決の目処が立っていないものもあります。しかし、そのような現状について、きわめてオープンにさらけ出す。ゲーテの活動資金のほとんどは連邦政府から出ていますが、NGO的な性格を持つ、私的文化機関という位置づけです。ただ少なくとも誰が見てもドイツを代表するような文化機関が、ドイツにとって都合の悪いことを、白日のもとにさらして議論する。それをやっていることで、ドイツという社会が、いかに民主的で開かれているのかということを、相手に伝えることができる。それがひいては、ドイツが "cultures in Germany" と言ったときも、その多様性について、それが単なるプロパガンダとかイメージづくりではないという、そういう説得力を与えるというように考えているわけです。」

「なぜ、情報の説得力を増さなければならないかというと、現実の問題として、グローバル化が進むなかで、同じフィールドにおいて同じパイを取り合わざるを得ない、そういう状況があるからです。同じパイを取り合っている限りは、同じ土台で情報戦をしなければならない。情報化時代に互いに情報を隠し通すことはできませんから、イギリスに関する情報をドイツは知っているし、ドイツの側の情報もイギリスは知っています。したがって、相手を出し抜いてやろうとか、一方的に自分の情報だけを出して仕切ってやろうとしても無理だということも、すでにお互いにわかっています。そこで、場合によっては、むしろ協力体制をとるわけです。たとえば、連合してEUとしての力を強められるところでは協調してやる。しかし、そのなかで水面下でではありますが、自分の強みについては相手には渡さないということです。ところが、フランスは、そのあたり、グローバル化の中で協調しながらいかに自分を発信するのかという視点が、やや弱いように思います。ですから、同じように協調体制と言いながら、常にフランスだけが勝手な行動をするという苦情を、ドイツやイギリスの人からよく聞きますね。」

「経済の機能主義、紛争の機能主義というのは、現象を概念的に分けているわけです。紛争解決のみを対象にして政策を練っていっても、そのために経済が悪くなるとだめなんです。逆に、経済の問題だけを最大化することを考えると、紛争を解決できないという相互連関を持っていますから、どれをどのようにすればいいのかというバランスの問題になるわけです。つまり、当然紛争は避けなければならないし、経済においては、少なくとも下がるよりは上がるほうがいいに決まっていますが、相互のバランスの中で、世界が地球社会になってきている以上、どういう社会を目指す必要があるのかというビジョンが必要になっています。当然いくつものビジョンがあり得ると思いますが、いずれにせよ、発信されたビジョンというものに対して、いかに賛同と協力を得られるのか、そこが、経済、紛争という個別の課題を超えた全体性として非常に大きな力、重要性を持っている時代ではないかということです。」

2010年6月29日火曜日

文化例外

文化例外cultural exceptionという概念について、wikipediaを引用します。一言で説明すると、グローバル経済から文化を隔離しようとする立場ということになります。

Cultural exception (French: l’exception culturelle) is a concept introduced by France in General Agreement on Tariffs and Trade (GATT) negotiations in 1993. It treats cultural exports differently than other traded goods because national cultures should be protected. It allowed France to maintain tariffs and quotas to protect its cultural market from other nation's cultural products, most notably American films and television.
France was granted cultural exception and in 2005, 65% of its film products were American imports, compared to 90% American imports in other European film markets.(NY Times, 2/5/2005, pg. 9B)
In October 2005, UNESCO's Convention on the Protection and Promotion of the Diversity of Cultural Expressions enshrined cultural exception as a method of protecting local cultures. Sponsored by France and Canada, the convention was passed 185-2, with four nations abstaining from voting. The notable naysayers were the United States and Japan.
The United States claims that cultural exception is a form of protectionism that harms global trade. In addition, it claims that cultural exception as outlined in the UNESCO convention allows for oppressive governments to suppress minority cultural voices. The film industry and other cultural industries in the United States are also against the concept of cultural exception, as it harms their export market, and have lobbied the United States to take its current position against cultural exception.
(文化例外は、1993年GATT交渉においてフランスにより導入された概念である。国家の文化が保護されるべきものであるために、文化的輸出品は他の貿易商品とは異なった扱いを受ける。これによりフランスは、自国の文化市場を他国の文化的製品から、特にアメリカの映画やテレビ番組から保護すべく、関税やクオータ制を主張することが可能となった。
フランスは文化例外を認められ、2005年には、他のヨーロッパ映画市場においてアメリカからの輸入品割合が90%であったのに対し、フランスの映画製品のうちのアメリカからの輸入品は65%となった。
2005年10月、UNESCOの「文化的表現の多様性の保護と促進に関する条約」は、局地的文化を保護する手段として文化例外を明記した。フランスとカナダの支援により、条約は185票対2票、棄権4票で可決された。特筆すべき反対国はアメリカおよび日本である。
アメリカは、文化例外をグローバルな貿易を阻害する保護貿易の一種であるとし、さらには、UNESCO条約により規定された文化例外は、圧政的諸政府が少数者の文化的な声を抑圧するのを可能にするものであると主張した。アメリカにおける映画産業界や他の文化産業界もまた、輸出市場を阻害するものとしての文化例外概念に反対し、文化例外に反対する現在の立場をとるよう政府に働きかけた。)



インターネットから入手した小畑理香さんという方の論文(「ヨーロッパ統合と視聴覚メディア」)がこの問題に言及しており、とても参考になりました。文化例外に対立する概念として、「文化的特殊性」というものがあり、それは文化的製品を他の製品と区別せず一様に GATS(サービス貿易一般協定)の対象とした上で、文化への特別な配慮を明記するものであるとのことです。

前述したように、フランスはこの後者(引用者注:文化例外)の立場をとっている。ウルグアイ・ラウンド当時、フランス文化大臣の職にあったジャック・トゥーボンは、ル・モンド紙への寄稿の中で自らの主張を明快に述べている。すなわち、視聴覚メディア産業は、経済的利益だけでなく「さまざまなかたちのヨーロッパのアイデンティティの生存に関わるものであ」り、放送クォータ制や制作に対する財政援助といった公的支援制度の維持は、「我々にとって自殺行為に等しい不均衡の出現を避けるために不可欠である」。したがって、フランス政府は、「交渉の成功という名の下に、重要な産業を犠牲にすることはできない」のである。
これらの2つの異なる主張は、第3章の終わりで指摘した問題と結びついている。すなわち、文化の論理と経済の論理のどちらを優先させるか、という問題である。フランスが主張する「文化的例外」が文化保護のために市場の原理を歪曲させることをも厭わないのに対し、イギリスらの主張する「文化的特殊性」は、文化に関わる製品をあくまで経済の論理のもとに置こうとする。つまり、これは、経済との関係において、文化をどう扱うかをめぐる意見の対立と捉えることができる。
さらに、ここでのフランスの主張が「ヨーロッパのアイデンティティ」を根拠としていることも注目される。これは、第1章で見たECとしての文化政策の根拠と共通している。ここに至って、「文化的例外」と「文化的特殊性」をめぐる対立は、「ヨーロッパ・アイデンティティの構築」と「域内文化産業の国際的競争力強化」(太字強調は引用者)というECによる文化政策の2つの目的とそれぞれ結びついたのである。つまり、ECが文化政策にコミットするための2つの根拠は、ここで相対立するものとして立ち現われてきたのである。
このような対立は、ウルグアイ・ラウンドの交渉にあたるEC委員会の立場を不安定なものにした。EC委員会の立場は「文化的例外」と「文化的特殊性」の間で揺れ、1993年1月以降は後者を採用するに至った。同様に、欧州議会の立場も揺れ動いた。欧州議会は、当初「文化的特殊性」を擁護していたが、1993年9月30日には「文化的例外」を決議したのである。


フランスはアメリカの文化的(経済的?)覇権に対抗する意図でECに協力していたために、ECの曖昧な態度はフランスに不信感を募らせることになったというのが小畑さんの理解です。 ここで「ヨーロッパ・アイデンティティの構築」と「域内文化産業の国際的競争力強化」ということが言われていますが、この二つはまさに僕がEuropeanaに見出したいと思っていた二つのものです(ただし前者の抽出作業が難航しています)。フランスが自国文化産業の保護を主張する際に「ヨーロッパ・アイデンティティ」に依拠するというのは確かに奇妙です。Europeanaが提供する資料の大半がフランスによるものであるだけに、小畑さんの記述は僕の関心と符合しています。

記憶の選択

欧州電子図書館Europeanaは、ヨーロッパ中の文化施設がもつドキュメントに一カ所からアクセスするためのポータルサイトです。サイトのトップページに書かれた紹介文によれば、

This is Europeana - a place for inspiration and ideas. Search through the cultural collections of Europe, connect to other user pathways and share your discoveries.
(こちらはヨーロピアーナ、インスピレーションとアイデアの場所です。ヨーロッパの文化的コレクションを検索したり、他の利用者の利用履歴にアクセスしたり、あるいはあなたの発見を共有してください)


ということです。随分と先進的な雰囲気を醸し出しており、いわゆる「図書館」イメージとは大きく隔たっています。このことは、EuropeanaがEUの<情報政策>の一環であることに由来するのですが。

図書館学の世界では伝統的に「選択理論」という領域があり、何を収集/公開し、何をそうしないのかという議論が展開されています。そして図書館が政治的権力により運営されるものである以上、収集対象の性格が当該権力の性格に左右されることは当然といえます。民主主義的権力においてもこのことは妥当します。もちろん、森羅万象あらゆる文書を収集することは現実的に不可能です。しかしそうした現実的理由からだけでなく、政治が元来記憶の管理を前提としているという理由からも、あるいは逆に「あらゆる記憶の政治は国家の介入を含意」している(デリダ)ことからも、選択の問題は不可避の問題となります。

僕はEuropeanaの研究を思い立った当初、記憶の問題をその中心に据えようと考えていました。ところが、Europeana周辺の文書には記憶の問題や選択の問題が全くといってよいほど登場しません。Europeanaにとっての目下関心事は、著作権問題やユーサビリティの問題であるようです。それでも、EU(あるいはフランス)とアメリカ合衆国の経済的覇権争いは確かに存在し、それが文化領域を巻き込んだものとして展開されていることも確かです。ヨーロッパがヨーロッパとして同一性を獲得することは、つまりヨーロッパが自分自身を選びとることでもあります。ヨーロッパにとって「ヨーロッパの文化的コレクション」とは何なのか。そこが問題です。

文化の戦線

国家による文化の保護/開放について、デリダはこう言っています。

この境界の開放が、強力な産業的生産機械による平坦で均一的なとるに足らない製品の市場への氾濫を意味するなら、むしろそこに見られる本来的に商業主義的なヘゲモニーに抵抗したほうがよいとは思いませんか。ただしこの場合、ナショナリズム的な保護の武器によって戦うのではなくて、競争に耐え得る作品の生産を支えたり、それに頼ったりしながら戦うべきなのでしょう。

国家・国民的な、またより一般的に特有的なある文化生産を、国家間条約の助けによって保護しようと望むなら、保護主義の最悪の結果にいつでに帰着する危険をもつことになります。つまり、国家・国民的または国際的な凡庸性を優遇したり、維持したりすることになりかねないのです。そこで、闘争は国境を設けてはならないでしょう。フランスと米合衆国の間、またはヨーロッパと米合衆国の間に「戦線」を敷いてはならないし、米合衆国の内部にさえ戦線をおいてはならないのです。(略)アメリカで闘う者たちは、フランスやヨーロッパでこの均質覇権主義に抵抗する者たちの同盟者なのです。


デリダは凡庸な均質覇権主義を否定し、さらには国家相互の保護合戦を否定しつつも、「闘う」ことそれ自体は否定していません。戦線なき闘いとは何物でしょうか。一見して非常に危険な区別に依拠しつつデリダが述べているのは、紐帯のさまざまな可能性ということだと思います。国家による保護が凡庸さしか生まないのかどうかは疑問です。また、闘うための武器(アーカイブに格納された「情報」のことです)は、依然としてその大半を国家的なものに依存せざるをえないことも確かです。しかし電子図書館をめぐるGoogleとフランス、EUの闘いを見ていると、なんだか焦点がぼやけているなという印象を持ってしまいます。なにより、文化保護ということが即座に集団的対立構造を生みだすというシナリオには若干の違和感があります。もちろんそこには経済的利害関係も密接に結びついているわけですが。

アーカイブの権利

テレビやインターネットといった遠隔メディアは、世界中の様々な出来事を我が家に運んできます。今ではほとんど誰でもが理解していることですが、そうしたメディアを通して運ばれる情報を「生」のものとして、無邪気に信じることはできません。我が家の外では誰かが、私を騙そうとして、あるいは何らかの行動を起こすべく誘導しようとして、そうした情報を流している可能性を排除することはできないからです(そういえば今日、久しぶりに映画『トゥルーマン・ショー』を観ました)。しかしデリダは次のように言います。

たぶん今日闘わなければならないのは、テレビやラジオ、Eメールやインターネットなどのテレテクノロジーに対してではなくて、これらのメディアが規範(ノルム)により大きな場所を残しておくために闘わなければならないのです。


文化的あるいは経済的な排外主義にとって、テレテクノロジーは敵でも味方でもあります。テレテクノロジーは全体主義体制を打ち破ることもあれば、原理主義者の世界的紐帯を強化することもあります(後者の例として、先月ニューヨークタイムズスクエアで爆破テロ未遂を起こしたファイサル・シャザドを挙げておきます)。しかし確かなこととして、そうした両義性にもかかわらずその彼岸において、テレテクノロジーが蓄積にしている情報の総体に市民がアクセスする権利は常に保証されていなければなりません。もちろん民間メディアに対してそうした権利をいつでも主張できるわけではありませんが、しかし少なくとも国家が法的に管理するアーカイブに関して言えば、そうした権利の保証はどうしても必要です。たとえ情報がどこまで遡行しても「生」のものでないにしても、市民は情報に触れ、独自に収集し、独自に解釈する権利を保証されるべきです。

デリダは、アーカイブへアクセスする権利は「市民」だけでなく、「外国人」にも保証されるべきと言います。これは道徳的宣言であるにとどまりません。なぜなら、排外主義にしろ多元主義にしろ、現在ではテレテクノロジーへの依存なしには存在しえないからです。サミット開催地でデモ活動を行うにせよ、アルカイダのような組織が犯行声明を出すにせよ、チベットの少数者が現地の惨状を訴えるにせよ、とにかく政治的な技術にはすでにテレテクノロジーが織り込まれているということです。だから、反-テクノロジー、反-市場、反-グローバリゼーションを主張するとき、自分自身をナイーブに捉えすぎるべきではありません。

tele-technology

英語のtechniqueの語源であるギリシャ語のtechne(テクネー)。この語はもともと人間のもつ制作能力一般を指す語として、芸術、医術、弁論術(いずれにしても「術」であり、現代英語のartに相当する)など幅広い領域をカバーしていました。現在でもtechniqueという語はサッカー、ピアノ演奏、医療行為、論文作成など、場所を選ばず用いられています。technologyという語は、現在いわゆる機械の文化を前提として使用されているけれど、それでもなお、人間の延長、人間のなしうる術の延長といったニュアンスを含み込んでいると考えてよいでしょう。この「延長」ということは、時間・空間的にも理解される必要があります。私の関心事である電子図書館を考えてみても、そのことはあきらかです(欧州電子図書館Europeanaを紹介する文書において、それはヨーロッパの「仮想旅行」を可能にするものだと言われています)。

ジャック・デリダは、「エクリチュールとはすでにひとつのテレテクノロジーである」と述べています。ecritureはもともとフランス語で「書き言葉」を意味する語ですが、デリダの文脈においては、主体(書き手や発話者など)の全体的統御を逃れ去ってしまう言語活動の残余を指しています。書き言葉は作者のもとを離れ、いつ・どこで、誰によって、いかようにも解釈されうるという危険を拭い去れませんが、それは話し言葉とて同じことです。他方tele-technologieのtele-は「遠隔」を意味しますが、technologyについて私が先ほど述べたことからすれば、実はこのtele-という語は余計であり、冗長であるとさえ思われます。つまりtechnologyはもともと遠隔的なものであるということです。ただし、technologyが内包するある種の断絶をことさら強調するためには、この接頭辞が一定の役割を果たすことも否定できません。