2010年6月29日火曜日

アーカイブの権利

テレビやインターネットといった遠隔メディアは、世界中の様々な出来事を我が家に運んできます。今ではほとんど誰でもが理解していることですが、そうしたメディアを通して運ばれる情報を「生」のものとして、無邪気に信じることはできません。我が家の外では誰かが、私を騙そうとして、あるいは何らかの行動を起こすべく誘導しようとして、そうした情報を流している可能性を排除することはできないからです(そういえば今日、久しぶりに映画『トゥルーマン・ショー』を観ました)。しかしデリダは次のように言います。

たぶん今日闘わなければならないのは、テレビやラジオ、Eメールやインターネットなどのテレテクノロジーに対してではなくて、これらのメディアが規範(ノルム)により大きな場所を残しておくために闘わなければならないのです。


文化的あるいは経済的な排外主義にとって、テレテクノロジーは敵でも味方でもあります。テレテクノロジーは全体主義体制を打ち破ることもあれば、原理主義者の世界的紐帯を強化することもあります(後者の例として、先月ニューヨークタイムズスクエアで爆破テロ未遂を起こしたファイサル・シャザドを挙げておきます)。しかし確かなこととして、そうした両義性にもかかわらずその彼岸において、テレテクノロジーが蓄積にしている情報の総体に市民がアクセスする権利は常に保証されていなければなりません。もちろん民間メディアに対してそうした権利をいつでも主張できるわけではありませんが、しかし少なくとも国家が法的に管理するアーカイブに関して言えば、そうした権利の保証はどうしても必要です。たとえ情報がどこまで遡行しても「生」のものでないにしても、市民は情報に触れ、独自に収集し、独自に解釈する権利を保証されるべきです。

デリダは、アーカイブへアクセスする権利は「市民」だけでなく、「外国人」にも保証されるべきと言います。これは道徳的宣言であるにとどまりません。なぜなら、排外主義にしろ多元主義にしろ、現在ではテレテクノロジーへの依存なしには存在しえないからです。サミット開催地でデモ活動を行うにせよ、アルカイダのような組織が犯行声明を出すにせよ、チベットの少数者が現地の惨状を訴えるにせよ、とにかく政治的な技術にはすでにテレテクノロジーが織り込まれているということです。だから、反-テクノロジー、反-市場、反-グローバリゼーションを主張するとき、自分自身をナイーブに捉えすぎるべきではありません。

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