2010年6月29日火曜日

文化の戦線

国家による文化の保護/開放について、デリダはこう言っています。

この境界の開放が、強力な産業的生産機械による平坦で均一的なとるに足らない製品の市場への氾濫を意味するなら、むしろそこに見られる本来的に商業主義的なヘゲモニーに抵抗したほうがよいとは思いませんか。ただしこの場合、ナショナリズム的な保護の武器によって戦うのではなくて、競争に耐え得る作品の生産を支えたり、それに頼ったりしながら戦うべきなのでしょう。

国家・国民的な、またより一般的に特有的なある文化生産を、国家間条約の助けによって保護しようと望むなら、保護主義の最悪の結果にいつでに帰着する危険をもつことになります。つまり、国家・国民的または国際的な凡庸性を優遇したり、維持したりすることになりかねないのです。そこで、闘争は国境を設けてはならないでしょう。フランスと米合衆国の間、またはヨーロッパと米合衆国の間に「戦線」を敷いてはならないし、米合衆国の内部にさえ戦線をおいてはならないのです。(略)アメリカで闘う者たちは、フランスやヨーロッパでこの均質覇権主義に抵抗する者たちの同盟者なのです。


デリダは凡庸な均質覇権主義を否定し、さらには国家相互の保護合戦を否定しつつも、「闘う」ことそれ自体は否定していません。戦線なき闘いとは何物でしょうか。一見して非常に危険な区別に依拠しつつデリダが述べているのは、紐帯のさまざまな可能性ということだと思います。国家による保護が凡庸さしか生まないのかどうかは疑問です。また、闘うための武器(アーカイブに格納された「情報」のことです)は、依然としてその大半を国家的なものに依存せざるをえないことも確かです。しかし電子図書館をめぐるGoogleとフランス、EUの闘いを見ていると、なんだか焦点がぼやけているなという印象を持ってしまいます。なにより、文化保護ということが即座に集団的対立構造を生みだすというシナリオには若干の違和感があります。もちろんそこには経済的利害関係も密接に結びついているわけですが。

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